「安定した利益獲得」と「究極のファンサービス」を目指し、完全無欠の情報網を構築
所属員プロフィール

馬主情報部・主な所属員

小栗 範恭
元JRA馬主・小栗 範恭(おぐり・のりやす)

1945年4月生まれ。
日本医療福祉開発という会社の代表取締役を務めていた頃、同じ医療系の会社を経営しており、代議士でもあった、当時の福島馬主会の会長・今泉貞雄氏の影響 で競走馬に興味を持ち始め、まずは一口馬主クラブ・日信レースホースの代表として馬主デビューを果たし、その後、1989年に個人馬主資格を取得。それか ら現在まで所有馬に目立った活躍はなかったが、2007年に東京馬主会の顧問を務めた経験などから、他の関係者に対する影響力の高さは、敢えて説明するま でもないだろう。元々、馬主という立場を活かした独自の馬券術を、周囲が高く評価していたが、最近になって本人は、「今後は、馬主としてではなく、ジャー ナリストして活動することで、競馬界の発展に尽くしたい」と語っていた。
マンハッタンカフェとアメリカンボスのワンツーフィニッシュで決まった2002年の有馬記念当日、馬主席で払戻金を受けた金額が、当時、関係者の間で大き な話題となったが、本人はその時のことを、「あの日は朝から、アメリカンボスの馬主の畔蒜(あびる)さんと一緒にレースを見ていたんですが、私がその時、 畔蒜さんからどういう話を聞いて、アメリカンボス絡みの馬券に大きく張ったのか、ご想像にお任せしますよ。まあ、敢えて言わなくともお分かりいただけると は思いますが」と語っている。

調教師情報部・主な所属員

山田 要一
元JRA調教師・山田 要一(やまだ・よういち)

1944年9月生まれ。
1960年に中山競馬場の柴田恒治朗厩舎で騎手見習いとなり、1965年に騎手免許を取得。通算122勝を挙げて1979年に騎手を引退し調教助手へ転身する。82年に調教師免許を取得し、翌1983年に厩舎を開業。ヤマノチャンプで初勝利を挙げた。1990年には、テレビ東京賞3歳牝馬Sをブルーベイブリッジで制し重賞初制覇。また、同年には、ケリーバックを桜花賞(2着)、オークス(3着)に送り出した。その後、2008年に定年まで7年を残し、3月31日付で調教師を勇退。調教師成績は通算3532戦195勝(地方競馬も含む)。
調教師引退後も、温厚な人柄から多くの関係者から慕われ、馬主の所有馬についてのアドバイスや、後輩たちへのアドバイスなどにあたっていたが、現在は、調教師時代に築き上げた関係者とのコネクションを活かし、ホースマンサミットの調教師情報部・副部長、及び広報担当者として活動をしている。 印象に残っている調教師時代の思い出を聞いてみたところ、「ブルーベイブリッジで重賞を勝った後、馬主さんが家族をハワイ旅行に招待してくれたことですかね」と話してくれた。また、調教師時代に親しくしていた騎手は、柴田善臣、蛯名正義、田中勝春とのことで、この三人の印象については、「人間的に信頼できますから、自分の厩舎の馬を乗せたくなりました。しかも、コンスタントにいい成績を残していますから、負けても馬主さんには納得してもらえましたよ」と語っている。
小西 聖一
元JRA調教助手/元JRA厩務員・小西 聖一(こにし・せいいち)

1943年9月生まれ。
セントライトの主戦騎手として、1941年の牡馬クラシック三冠を制し、調教師としても、ラプソデー、タカマガハラ、ミハルカスなどを育て上げた小西喜蔵の長男。育った環境を考えれば当然だが、自身も競馬人としての道を歩み、父の定年までは同厩舎で調教助手を務め、それ以降は、佐藤林次郎厩舎、高市圭二厩舎、嶋田功厩舎で厩務員を務めていた。当団体に所属し、直接、馬の世話をしなくなった今でも、現役時と変わらない向上心を抱いており、常に新たな調教方法などを考え続けているため、現在も、彼の元には助言を求める厩舎関係者達が後を絶たない。
育った環境を考えれば当然だが、小学校や中学校の同級生には、競馬関係者が非常に多く、ジェニュインなどを管理していた松山康久元調教師や、カネミノブなどを管理していた阿部新生元調教師や、ランニングフリーなどを管理していた本郷一彦元調教師といった顔触れは、「府中第二小学校」の同級生である。